キンモクセイのライブとオザケンのDVDビューイングハシゴした日 後編

前編はこちらから。

 

キンモクセイのライブとオザケンのDVDビューイングハシゴした日 前編 - にせんねんもんだい

 

 

長年すきだったキンモクセイのライブで多幸感を得まくったあと、心斎橋に移動し、オザケンのDVDビューイングに参加した。オザケンのアルバムLIFE発売20周年とスペースシャワーTV開局25周年を記念して今年の8月にスペシャで放送されたものが今度「超LIFE」としてDVD化されるのだが、それを映画館で大音量で見よう、という試みらしい(なんかややこしいな)。会社の同期に誘われてのこのこ参加した。


映像はおもしろかった。どこまでいっても小沢健二の天才っぷりを感じさせられた。登場した瞬間から目が離せない。かわいい顔して繊細でどことなく危うい見た目。シンプルで無駄のない旋律とわかりやすく本質的をついた歌詞。音楽は大衆的なものなのに大衆からは生み出せないものなんだなぁって思った。味わえば味わうほど他に類をみない。明るいのに毒と闇がある。自然なのに圧倒的にすごいから、あぁこれは天才なんだなって深く納得した。とても浅はかな感想だけどね。

 

キンモクセイのライブをみて、物語の取得をやめようと思ったのと反対に、これは物語の共有をせまる映像だった。LIFEの曲順に、その曲のエピソードやまつわる人のインタビューや当時のライブ映像が流れる。小沢くんはこういう人だった、こういう風にレコーディングをした、こういうところをこだわって作った。小沢健二とその時代の物語をみんなで楽しんでいる。すごく嬉しそうにインタビューに答え、オザケンとのエピソードを語る。それをこちらも楽しく見る。映像側(オザケン周り)も、観客側(オザケンファン)も各々がもつオザケンの物語、もしくは同時に存在する自分の物語を、この超LIFEを通して感じるイベントだな、って思った。オザケンのカリスマ性がなせる技なんだろう。

 

こういうときに悲しいのは、その時代・物語を体感していないことだ。オザケンを史実でしか知らないため、どうがんばってもにわかの枠を抜け出すことができない。サブカルもオリーブも肌感覚としていまいちつかめない。こんなにおもしろそうなのにいつまでたっても一線を越えることができないのだ。20年経っても熱量が衰えないってどういうことなんだっていうこと、当時の空気感、いまでは絶対味わえないから、指をくわえて見ているしかない感じがある。確実に存在するのは「小沢くん」と呼べる人と呼べない人の差。

でも、それだけじゃない気がする。単に知らないからつまんなーいっていうだけではないこの気持ち。悲しい。寂しい。悔しい。強い疎外感がどこからくるのか。楽曲だけを愛でることに満足できないのはなぜか。もやもやしながら考えた結論。

 

オザケンはわたしにとってリア恋枠だ!!!

 

リア恋枠とはジャニオタ用語で「リアルに恋したい人」という意味。もしくは「リアルに出会ったら恋したであろう人」という意味。「担当」とはちょっと違う。わかりやすく言うと「付き合いたい!」ってことかしら。
まさにオザケンはわたしにとって「リア恋枠」だ!付き合いたい、オザケン付き合いたいよ!当時のオザケンと付き合いたいのか今のオザケンと付き合いたいのかはたまたオザケンの才能と付き合いたいのか、対象はよくわからない。もはやオザケンという概念と付き合いたい気がする。オザケンイデア。付き合いたい、っていうか、きゅんってする。すき。すきだ。ラジオで恋人の話とかしないでほしい。わたしの知らない人の名前を楽しそうに出さないでほしい。満たされない独占欲、これこそがリア恋枠。
わたしは近所に住む年上のお兄ちゃんに恋している気持ちでオザケンをみている気がする。学校ではわたしの知らない友達がいて、わたしの知らないひとと遊んでいて、わたしの知らないことをいっぱい知っている。わたしには見せたことがない顔がいっぱいあるんでしょう?それがとてつもなくさみしい。これ、わかる?
ていうか散々才能がどうとか、旋律がどうとか、歌詞がどうとか言っていたけれど、結局わたしがいちばん惹かれているオザケンの部分は「王子様であること」な気がしてきた。わかりやすくキラキラしているんだもん。わたしは仔猫ちゃんになったつもりでオザケンをみているのだ。なんとまぁミーハーで軽卒だこと。

 

オザケンをリア恋枠にセグメントしたことはとてもすんなり腑に落ちた。もやもやは奇麗に晴れた。そしてAmazonで超LIFEをポチった。なぜか。

 

購入という行為には大きく3つあると思っている。
まず純粋にそのものがすきなこと。まぁそのとおり。いい曲だなと思って買う、っていうやつ。でも実際これはあんまりないんじゃないかなって思う。単に「いい」と思うものを買わなくてはいけない強い動悸になりにくいのではないか。YouTubeでもレンタルでも手に入れる方法はいっぱいある。
ふたつめは応援の意味をこめて。つぶれてほしくないお店には通わなくてはいけない。活動してほしいアーティストのCDは買わなくてはいけない。池上彰も買物は投票行動だって言ってた。
みっつめはコレクターとして。所有欲をみたすための購入。物語を完全にするための購入。
わたしがジャニーズのDVDやCDを買うのはふたつめとみっつめの意味合いが強い。キンモクセイはふたつめだ。じゃあオザケンはどれなんだろう?ってずっと思っていた。応援の意味をこめるほど彼はもう活動をしていない。コレクターとして消費する資格はわたしにはない。オザケンのものを買う意味ってなんだ?わたしそこまでオザケンすきだったっけか?って思っていた。が、リア恋枠ならしょうがない!だってすきなんだもの!わかりやすく、そう、王子様としてすきなんだもの!!!それならば、手に入れられるものは手に入れなくては。文化を知ることは無理かもしれない。そんな資格は永遠に得られないだろう。でも、すきという気持ちに嘘はない。わたしとオザケンの物語はここから始められることができる。それならば、オザケンDVDを買うことに意味はある!!

 

わかったようなわからないような理論でわたしはオザケンのDVDをポチった。
もっと簡単にいえば、サブカルと東京へのコンプレックスがあったんだと思う。それをリア恋という形で乗り越えることができたんだと思う。
それがわかっただけでも収穫だった。

 

 

もっとちゃんと言いたいことあったんだけど、長くなったわりにうまく書けなかった。また随時加筆修正してまとめなおしたい。(備忘録)

 

 

オザケンもはっておきますね。


小沢健二 :紅白 ラブリー - YouTube

キンモクセイのライブとオザケンのDVDビューイングハシゴした日 前編

わたし的もっと評価されてもいいんじゃないのアーティスト1位のキンモクセイのライブを見にsole cafeに行ってきた。正確にはキンモクセイのボーカルの伊藤俊吾さんとギターの佐々木良さんのライブだ。
わたしがキンモクセイに出会ったのは2002年キンモクセイ史上最も売れた「二人のアカボシ」だが、ハマりだしたのはその次に出た「七色の風」だった。アルバム「音楽は素晴らしいものだ」はそれこそすり切れるくらい聞いたし、そのあともアルバムは追っかけ続けていた。しかしタイミングが合わずライブにはいけず、そうこうしているうちにキンモクセイ自体が活動を休止してしまった。
現在は各々がユニットをくんだり、ソロで歌ったりと、キンモクセイとは違う形で音楽活動を続けているようだ。わたしはあくまでもキンモクセイがすきだったこともあり、ソロやユニットは追っていなかった。そんな風に活動していることすらあんまり知らなかったというのもある。それでも何かのきっかけでsole cafeでキンモクセイの二人がライブをおこなうことを知り、足を運んでみたのだった。
その感想。

 

 

え、ていうかキンモクセイめっちゃかっこいじゃぁ〜ん!!!

 

 

歌い始めてすぐ思ったのこれね!!!脳内松尾みゆき(長澤まさみ/モテ期)がケラケラ笑いがら指さしたよね。なんだかっこいいじゃあん!って。キンモクセイが売れない理由はビジュアルだとか本当に失礼なことを言って申し訳ありませんでしたと3億回土下座したいぐらい普通にかっこよかった。特にボーカル伊藤さん。ギターを持ち替えキーボードをさらっと弾き、あの声で歌われたら普通に結構メロメロになる。表現が古い。楽器できる人かっこいいってミュージシャンにあるまじき感想を抱きながら、このセクシーさはなんなんだろうと高まる鼓動を抑えきれないこの感じ。やばい、すき!
そもそもすきになったのが中学生。そこから、うっすらとはいえ常に心の片隅にキンモクセイは居た。そりゃあ思いも募っている、というわけで、そのひとが目の前で歌っていることに素直に感動してしまう。この声このメロディーこのコードこのリズム。昔から音源で聞いてきた、音源でしか聞いたことがなかった音楽が目の前で披露されるとこんなに感覚が反応するのかと驚いた。半分以上知らない曲だったんだけれど、飽きることも嫌になることもなく、そこに明らかに感じられるキンモクセイらしさで脳内と体内が満たされていく。幸福とはこのことではないかと。

その後手売りの物販があり、CDを2枚買った。自分が思っている以上に緊張した。この気持ちなんだろうって思ったけれど、すきな人にすきって伝えるのって、それつまり告白じゃないか、そりゃ緊張するだろう?震えながらもよかったですってことだけ伝えて、握手してもらった。高揚感。わたしこんなにキンモクセイのことすきだったんだな。

 

キンモクセイはもう活動休止して6年になる。二人のアカボシがかなり売れたからこそ、そこから(少なくともオリコンランキング的には)奇麗に転落していってしまった感もある。その辺りをどう考えているのか、どう思っているのか、調べてお勉強したくなったけれど、今回は辞めておこうと思った。すぐ物語を取得したくなるのは癖なのだけれど、それは無粋だと思った。そうじゃなくもっと純粋に楽曲を楽しんだらいいじゃないか。


いいライブがなにかという基準はいろいろあると思うけれど、単純に時間が早くすぎることという観点で言えば、間違いなくいいライブだった。すきな曲をきいて、楽しいおしゃべりをきいて、とてもよい時間だった。

 

これも正直MVはどうなのっていう感はあるが、かっこいい。


キンモクセイ 車線変更25時 - YouTube

ヴァンサンカンに思う

『CLASSY.(クラッシィ)』って知ってますか。
光文社が出している女性向けファッション雑誌。創刊は1984年とわりと古い。
このCLASSY.、今の今まで完全に「30代のキレイめカジュアル路線OLが読む雑誌」として認識していた。某通販会社のキレイめカジュアルOLみたいな服の口コミなんかにも「こういうCLASSY.みたいな服増やしてください」っていう声があがっていたりして、なるほど、こういうのを読む層が一定数あるんだなぁふむふむって思っていた。そしたら、今日初めて知ったんだけれど、CLASSY.って「都市部にすむ20代後半から30代前半の女性」をターゲットにしているらしい。えええ!がっつりはいってる!!京都が都市部かどうかはいったん置いといたとしても、年齢的にはわたしがっつりCLASSY.だった。いや、20代後半から30代前半ということは、CLASSY.1年目のクラ1ですってどこかで聞いたことあるような立ち位置ではあるんだけれども、それでも完全にCLASSY.から狙われていたとは。関係ない世代のいずれ読む雑誌、じゃなかった。CLASSY.1年目としてこれからがっつり学ばせていただきます、という雑誌だった。これはわりと衝撃だ。
同じ光文社ということで、CLASSY.のひと世代前にあたる雑誌は『JJ』にらしい。雑誌の話を始めてみたものの、そもそもわたしはほぼ雑誌を読まない。とくに赤文字雑誌は読まないので、別にJJも読んでいたわけではない。でももしCLASSY.かJJを読むとしたら完全に後者だと思っていた。どうやらJJはあくまでも「女子大生」がターゲットらしい。正直わたしのマインドはわりとまだ女子大生(JJが意味するものと合致するかは別として)なんだけれども、よくよく考えたら卒業から3年がたちそうになっている。高校卒業間近に控え、「まだ中学生気分」と一緒、ってそれは結構やばいだろう。
気づけばゆるふわ巻髪女子大生ではなく、タイトスカートを履きこなすキレイめOLになっていた。別にどちらであったこともないけれど、年齢という記号においてはどうやらそうらしい。ショックだとか悲しいというよりも、ただただ驚きだ。
思えば最近、18歳の子に「年がはなれてますね」って言われたり、年上だと思っていたしっかりしたお姉さんが同い年だったりすることが増えてきている。そのたびに新鮮に驚いている。18歳からみた25歳はそれなりに年がはなれているし、しっかりしたお姉さんもいくつくらいに見えるかといわれれば「25歳くらい?」と答える。だから25歳がこんなもの、という像はある。わたしが25歳だという自覚もある。ただ、世間の25歳というものと自分が25歳ということがいまいちリンクしていない気がする。
こんだけ年齢の話をしておいてあれだけれども、少なくとも今は年をとることに抵抗を覚えているわけではないつもりだ。なんならこの不安定な時期を飛び越して早く50代になってしまいたいし早く子どもも大学卒業して自由な時間をすごしたい(いないけど)。それでも、自分が25歳ということ、25歳がこの性格でこの生活をしていることには、いまいちしっくりきていなくて、「やばいなぁ」と思ってしまうのだ。
どちらかというとモラトリアムからの脱却がまだできていないのかな。精神的に自立したら素直にCLASSY.読むようになるんだろうか。なんか全体的にこの話おこがましい気もしてきた。それでもCLASSY.世代ということに驚いたことは残しておこうと思う。

 

歯医者の話

かれこれ2年近く歯医者に通いまくっているのだけれど、いまだにわからないことがある。
治療中は目を閉じた方がいいのかどうか、ということだ。
ググってみたら目を開けている人の方が少数派っぽかった。
わたしは治療中は目を開けて、ぼんやりとライトをみつめている。たぶん結構気持ち悪いと思う。たまに歯科衛生士さんと目があったりもする。やっぱり気持ち悪いと思う。
矯正のために歯医者にいっていることもあって、治療中よくわからない器具がどんどん口に入れられていく。器具名やワイヤーの種類などはなにも説明してもらえず、なされるがままなので、一体何がどうなっているのかよくわからない。まったくインフォームドされていない。だから、今からわたしの口にいれられるものを少しでも見て確認しておきたいという気持ちもある。知らぬ間に口からぐるぐる巻きにされたワイヤーが飛び出していたりするのだ。それを知らないでいるということは恐怖ではないだろうか。
目を開けておくメリットというのもあると思っている。歯医者さんや歯科衛生士さんがどう動くのかを感じられることだ。「口をあけてください」と言われるまえに口をあけたり、その口の開け方の微調整を試みたりと、こちらもプロ患者としてできる限りのことをしている。その微妙な空気を感じるためには、目は開けておく必要があると思う。だんだん呼吸があってくる感じはなんだか爽快でもある。

 

けれどやはり気持ち悪いんだろうな。

 

ちなみに、美容室のシャンプー時にガーゼの下で目を閉じた方がいいのかどうか問題は中学生のときに解決した。美容室で出された雑誌に「ガーゼの下で目があいているお客さんがいた!怖かった!(笑)(25歳・美容師)」という投稿があった。この投稿を美容室で発見したのは偶然なのか、意図的なものなのか。それ以来シャンプー中は目を閉じるようにしている。

vol.30

ついにvol.30までやってきた。かれこれ1ヶ月、毎日毎日ブログを更新し続けた。つらいときもあった。やめたいと愚痴をこぼしたこともあった。ただツイッターをはりつけるだけることもあった。連続ログインで魔法石をもらうだけの人になっていたこともあった。それでも、決まって何かをし続ける毎日は刺激的でほどよい束縛感があった。一応達成感も得られた。

 

秋だから、毎日更新するようにしていた。
気づけば季節は移り変わり、もう十分に冬だと思う。というわけで、毎日更新、とりあえずここでいったん終了したい。今後はまた気が向いたときになにか書ければいいな。でもそれなりの頻度で更新していこうとは思っているので、また見てください。

 

 

記念、っていうわけでもないけれど、前々から形に残るものを作りたくて、この機会につくってみたよ。より抜き編です。うそです。ちょっと本当です。技術がなさすぎてつらかったけれど、なんとか形にまとめました。

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うれしいねー