vol.28

 

コーヒーが飲めるようになった。わたしの中で明確に、その時を感じることができた。
コーヒーは後天的に、学習して好きになっていくものだとは思っていた。あんな苦くて黒いものをぱっとのんでおいしいと思えるとしたら、本能的ななにかが狂っているとしか思えない。毒に気づけない。苦くておいしいなんてそんなことは自然界にはあまりない。それでも飲み続けていったら香りとかコクとかリラックス効果とかを体や脳が覚えて、あぁこれはおいしいんだなって理解できるようになる。そこで初めてコーヒーを好んで飲む習慣が生まれるのだと思っていた。
わたしはビールがすきで、最近ではもっぱらビールばっかり飲んでいるけれど、これも最初からそうだったわけではない。初めて飲んだときは「これがおいしいのか?」と思ったし、数年間はジョッキ1杯飲めばまぁ満足だった。というか、断言するけれど、最初飲んで「やばい!ビールめっちゃおいしい!!常に飲みたい!いくらでも飲みたい!」ってなる人はまぁいない(と思う)。ほんとにほんとの最初は「なんだこれ?苦い」という感想が普通だ。それでも飲み続けていくと、喉越しやら爽快感やらアルコールによる高揚感やらが体や脳に記憶され、「ビール=おいしい」に書き換えられる。
コーヒーもこれと同じだと思っていたので、この1年くらいは意識して摂取して、おいしいものだと体に覚え込ませようとしていた。もともとカフェオレや甘いやつは飲めた。カフェインがダメというわけではなく、単純に味を欲することがなかった。それでも、紅茶じゃなくてコーヒーを頼んでみたり、ミルクの量を減らしてみたり、と、少しずつ少しずつブラックコーヒーに触れる機会を増やしていった。そして、ついに昨日、ブラックコーヒーを何の違和感もなく飲むことに成功したのだ。自分でもはっきりと、「あ、コーヒーおいしく飲めるわ」って思えた。努力が実を結んだことを実感できたのはとても幸福だったと思う。
これを応用すると,すき嫌いはよほどのことがない限りだいたい克服できるということになりそうだが、そう簡単にはいかない。脳や体に徐々に覚えさせる行為は、あくまでも最初の「ん?」っていう気持ちを「おいしい」に書き換えるだけのものである。すでに「嫌い」だと思ってしまったものを「おいしい」にするにはまた別のプロセスが必要な気がする。というか、すでに「嫌い」だと思っているものを、慣れるまで意識的にとり続けることができるなら、それもう「嫌い」じゃない。たしかにしょうがなく強制的に摂取し続ければいつか嫌いの記憶ですら上書きできるかもしれないけれど、大人になるとそういうこともなくなるので、わたしのすき嫌いは相変わらず減らないままだ。

vol.27

なにかを考察してみたいと思っている。なんかかっこいいし、賢いっぽいし、興味深いし、趣きあるし、いいなって思った。けれどなにを考察したらいいのかが思い浮かばなかった。いっつもそうだ。してみたいことをの外側には興味を持つのだけれど、肝心の中身がうまらない。なにかつくりたい、なにか書きたいといいながら、その”なにか”が思い浮かばないことがよくある。ミーハーだから、動機が軽率なのだ。ていうかそもそも考察ってなんだ。考えて察するってなんだ。辞書によると、「物事を明らかにするために、よく調べて考えをめぐらすこと」らしい。感想とは違うらしい。どうやら大切なのは「物事を明らかにする」という部分らしい。つまり、明らかにしたいものが必要と言うわけだ。もはや明らかにしたいものを考えなくてはいけない。こうなると考察をするための考察が必要になってくる。そうするとそのための考察がまた必要になって、最終的にはバターになってしまう恐れすらある。
妄想もしてみたいと思っている。これはちょっと語弊がある。妄想をしたことがないということではない。というか毎日妄想と想像のお花畑で生きているようなもんだ。でもそれのうち何割をきちんと文にして出せるだろうか。そんなどぎついことばっかり考えているわけではないよ。でも文にしたときにきちんと形になる妄想というのがどれくらいあるだろうか、という話。一応こちらも辞書で調べてみたら「1-根拠もなくあれこれと想像すること。2-とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること。3-根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信を持ち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念」ということだった。なんかどれもこれも痛い。妄想ってありえないんだって。知ってた。知ってるけど思いおこすのが妄想で、それはやはり辞書の意味から寸分違わずなんだけれど、でもなんかつらい。妄想の意味を知ることで現実を突きつけられるなんてアイロニカル。
なんとなく、世の面白いものは、感想が考察になったり、妄想が付随している気がする。というか、わたしが面白いなと思うもの。出発点はあくまでも感想で思いで考えでないといけないわけで、なにもないところからは芽がでないんだな、って当たり前っぽいけれど意外と忘れがちなことを思っていたりする。感想というか感情というか、そういうことをきちんと把握する必要があるんだ。っていつのまにこんなにポエティックになっていったのか。こんなはずじゃなかったんだけど。
感情と言えば最近読んだ『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題/ジェーン・スー』より。

 

さみしくて傷ついた時にそれを認識しないでいると、嬉しくて飛び上がりたい時の感情も、可愛いものや美しいものを見て幸せになった気持ちも、感動で心が揺さぶられた時の気持ちも、だんだん表に出せなくなってきます。すると、正当な感情として表に出せるのは、「美味しい!」とか「むかつく!」ぐらいになってしまう。

 

 

いや~~~~~~~泣いた泣いた。
美味しいとむかつくしか言えない人生でごめんなさい。誰にごめんなさいってわたしにごめんなさいだよ。
ますます話の終着点がみえなくなっていったのでこの辺で終わろう。はーもうなにがなにやらよくわかんないな。今週ひまだったのにあんまり記憶ないしな。たまにはそんなこともあるかな。木曜だし。

 

あ、最後に、感想、考察、妄想のベースに体験があると尚良し、ですな。

vol.27

 

ポルテは本当においしい。冬のチョコのなかで一番おいしいと思っている。高1くらいから毎冬毎冬死ぬほど食べているがまだ飽きない。最近はそうでもないけれど、前はあまり店に置いてなくて、見つけたらまとめ買いしていた。それでも高1くらいからずっとあるということは根強い人気があるんだろう。
独特のなめらかチョコレートとココアパウダーはすこし紅茶みたいないい香りがする。ミルクのホイップとサクサク焼き菓子が織りなすハーモニーは上品だけれど親しみやすく好感が持てる。重すぎず軽すぎず、とてもよいバランスととてもよい広がり方で、ポルテは毎冬わたしを楽しませてくれる。ありがとう。

 

一番すきなおかしはたけのこの里で、これはたぶん物心ついたときからずっと食べてる。こんな高カロリーなものをずっと食べてる。チョコがそれだけでおいしいのにビスケットがしっとりしていて嫌みが無いところがよい。温度によって微妙に味が違うところもよい。

 

明治にあし向けて寝らんないです。

vol.26

 

昔ボーリング場の近くに住んでいた。歩いて10分ほどのところにボウリング場があった。それでもボウリングはわりと下手だしあまりすきではない。今年の職場の忘年会がボウリングだと聞いて今から気が滅入っている。
ボウリング場の駐車場にはボウリングのピンを模したおおきな看板があった。田舎の街には周りにそれ以外に高いものはなかった。よってボウリングのピンにはよく雷がおちた。ほんとによく落ちた。台風もわりとくる地域だったし、大雨がふったこともあったが、その度にボウリング場のピン及びそのまわりには雷が落ちていた。一生分の落雷を経験した。
ボウリング場の近くに住んでいて手に入れたものはそれくらい。

vol.25

 

もんじゃって何が正解かわからないけれどおいしい。
お好み焼きより好きだわ。
もう関西に迎合しないんだわ。
それこそが関西コンプレックスの裏返しなんだわ。

vol.24

わたしはやはりお金を出して何かを手に入れるという行為がすきだ。最近なにがすきだとかすきじゃないとかいうはなしをよくしてるのは、そういうはなしもすきだからだね。 
今日は本を買った。チチカカコ文庫の「これが教養だ」フェアで紹介されていた谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』と、ジェーン・スーの『貴様はいつまで女子でいるつもりだ問題』。 
チチカカコ文庫とは、ちくま学芸、中公、角川ソフィア、河出、講談社学術の5学術・学芸文庫の頭文字を取った「同盟」のことらしい。普段はライバルの編集長が本気で読者にすすめたい本を選んだというのが「これが教養だ」フェア。普段はライバル(別グループ)の編集長(センター)が集結したフェアってそれだけでかなりわくわくしてしまう。なにそれジャニーズカウントダウンか。松潤亀梨錦戸山Pでアンダルシア歌うやつか。えええなにそれやばいみたい。文字で見ただけで感情のたかまりがすごい。加えて、わたしは文学部出身(が関係あるかは別としても)のくせに、古典や有名作品をほぼ読んでいない無教養野郎なので、このフェアを機に教養に触れてみようと思った。ラインナップを見ただけでクラクラしてしまうような威圧感の中で、なんとか自分でも読めそうなものを選んだ結果が『陰翳礼讃』だった。正直、無教養野郎はなんて読むのかもわからなかったけれど、今回ちゃんと読んで少しでも教養を蓄えていきたいと思う。ジェーン・スーの方は最近ネット界でよく見ていて、おもしろいと話題だったので購入。きっとこちらはサクッと読める気がしている。

 

この2つを持ってレジにいく。その瞬間がとてもすきで、にやにやしてしまう。買い物も一種の自己発信だな、と思う。わたしはいまから『陰翳礼讃』と『貴様はいつまで女子でいるつもりだ問題』を読むのだと、小さな世界にアピールする。そういう自分きらいじゃないよ、と。

 

ナンシー関の『信仰の現場』も探したけれどなかった。アマゾンで買えばすぐ手にはいることくらい、通販ビッチのわたしはよく知っているけれど、それでも本は本屋で買おうと決めたので、今回は諦めた。幸い他にも読みたい本はあるので、それらを読みきってまだ手に入っていなければ、そのときはアマゾンに頼もうと思う。アマゾンはとても便利だけれど、本を買うときはちょっとした物語と発信があったほうがすきだなってなんとなく思っている。すきなものにはきちんとお金を払わなければいけない。 
ちなみに自分勝手だけれどCDにはその物語と発信を求めていないのでがんがんアマゾンで買う。そんなもんだ。

vol.23

 

朝、iPhoneを落として、表面の上部にかるくヒビがはいった。画面は無事なので、見る人が見たらこんなのヒビがはいったうちに入らないと言われるかもしれないが、間違いなくヒビだ。使うのに支障はない。これがきっかけに徐々に不具合がでてきたりするんだろうか。わたしのiPhoneは5で、もう使い始めて2年たったので、機種変をしてもいいのだけれど、まだiPhone6の大きさに抵抗をもってしまう。このまま5を使い続けて半年後くらいからだんだん壊れてきて、でももうすぐ6s的なものがでるはずだからって騙し騙し使い続けて、6sが出るのが早いか5が壊れるのが早いか、勝つか負けるか非常にストレスフルな毎日を送る将来が見えた。