何もかも忘れられないよ

ついに今日をもって京都を離れる。離れることが決まってから、うじうじしたりうきうきしたりしながら過ごした約2ヶ月が終わろうとしている。引っ越し作業もなんとかうまくいき、生活する上での不便や不安なことはとりあえずなさそうに思える。とりあえずの達成感としては100点満点だ。

 

 

それでもやはり、さみしさがすごい。
わたしが固執していたものは「京都」ではなく「京都に住むこと」であったのだと改めて思い知らされる。京都に住みたくて大学を選んだ。なんとなくでも志望校を決めたのは高1になってすぐの模試だったはず。かれこれ10年の時が過ぎようとしている。あのときから続いているわたしの京都物語が今終わろうとしているのだから、それはそれは壮大なことだ。
京都に遊びにくることは簡単なのだ。5000円ちょいかけて1時間弱電車に揺られれば、京都タワーの麓につけるのだ。桜だって紅葉だってふらっと見に来ることだってできる。日帰りも大丈夫。

それでもやはり、さみしさがすごい。
もう京都に住むことはできないと思うと悲しい。ふらーっと思い立って自転車でいろんなとこに行ってみたり、鴨川でぼーっとしてみたり、木屋町で騒いでみたり。西にも東にも北にも南にも、すきなところがいっぱいあった。あぁ泣いちゃう。
碁盤の目を踏みしめながら、空を見上げては、あぁ京都に住んでるんだなぁって実感していた日々が終わる。詩的でちょっときもいだろうか。でもそれくらい、わたしは京都に住むということに愛着をもっていたのだ。

 

と、同時に、京都を卒業できる安堵というものもある。
京都が大好きで大好きで住めて本当に嬉しくて最高だったけれど、ここで一生を過ごすことはあまりイメージができなかった。ぼんやりと、いつかは出て行くんだろうと思っていた。京都を出て行く人を眺めながら、優越感と同時に焦りを感じていたのも事実。わたしはいつまでもここから抜けられず、学生時代やその他のキラキラをひきずり、空想の中で大きくしながら生きていくんだろうかって思っていた。
本当はもう現実を見つめなくては行けなかったのに、いつまでも現実ではない京都の中にふわふわと浸かっている感じがした。

 

京都のことを考えるとどうしてもポエティックになってしまうな。
それこそが京都と適切な距離感で関われていないことの象徴なのかもしれない。とても幸せだけれど不安定だ。
これからはもう少し客観的に京都と付き合っていける。やはりさみしいけれど、健全で安定している。

 

 

お世話になりました。