7月の目標

転職して3ヶ月が過ぎた。仕事や会社にもようやくちょっと慣れてきた。相変わらずの拘束時間の長さと、理不尽な抑圧と、自分の人に会うキャパの小ささからなにかと愚痴は多いが、5月なかばの仕事やめたい指数が10000000だとしたら今は50くらいになった。人間の適応力というのはとてもすごい。

 

というわけで、個人的な次のステップにすすんでみることにした。それは、とにかく意識をもって生活するということ。日々忙殺されるだけではなく、主体的に生活を実行していく。流されるのもいいけれど、流れるつもりで流れよう的な。
その手っ取り早い方法として、毎月の目標をたてることにした。月末その結果を振り返っていく。意識高いでしょ。そうなのです、最近意識高いんです、わたし。

 

とりあえず7月の目標を考えたので発表する。7月の目標は

 

野菜を食べる

 

これでいきたいと思う。
なんだそんなこと!と思ったアナタ。甘いぞ!一人暮らし分かってなさすぎだぞ!日常で野菜を食べるというの、意外と難しいのだ。

 

そもそもわたしは好ききらいが多いし、おいしくないものはあまり食べたくない。野菜炒めとか、別においしくないけど不味くもないし作るのが楽なだけの料理なんて本当に食べたくない。加えて疲れやストレスを食で癒そうとする癖がある。その結果、ここ3ヶ月は毎日カマンベールチーズとたけのこの里で生きる、みたいな生活をしていた。

 

でもさすがにアラサーに手が届きそうな(もう届いてるのか?)年でそんなことをしていたら数年後に大きなしっぺ返しを喰らうことは薄々感じている。手遅れになる前になんとかしなくてはいけない。その第一段階としても、今月は野菜を食べる。とりあえず野菜を食べる。まずは野菜を食べる。迷ったら野菜。これでいきます。

 

月末果たしてなにか変わっているだろうか。その前にきちんと遂行することができるのだろうか。そもそも覚えてられるんだろうか。
不安は残るけども、今月は野菜を食べます。

いきものがかりライブに行ってきた

ゴールデンウイークですね。

5/2からスタートした大型連休前半は関西に帰り*1、サークルの同期達とわちゃわちゃ飲んだり喋ったりした。今日から始まる後半は家族で長野のペンションに泊まりに来ているわけだけども、本もパソコンも持ってこなかったしやることもないし、ベッドでゴロゴロしてるだけ。あぁ、そういえばブログを書くという娯楽があったなと思い出したので、スマホからぽちぽちと更新。
 
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イングリッシュガーデン。アリスの庭。世界観だねぇ。
 
 
前回宣言したとおり、いきものがかりのライブに行ってきた感想を書く。
 
4/4にいきものがかりツアー「いきものがかりの みなさん、こんにつあー‼︎!2015〜FUN!FUN'FANFARE!〜」にいってきた。
ファンの方には申し訳ないけれど、いきものがかり、特に興味はなかった。母親が誘ってくれたので大阪まで足を運んだわけだけれど、母親もいきものがかりにそんなに興味があるわけでもなかった。ただのミーハー×2。
 
そんな心持ちで出かけたいきものがかりのライブ、一言で言うと、めっっっっっっっちゃ楽しかった!!!!!!!!!
 
あんなにまっすぐで明るくて全力で楽しさをぶつけてくる人たち、いないと思う。ポップのパワーってこういうことか!と。
象徴的なのはやはりボーカル聖恵ちゃんの声なんだろう。明るく伸びのある声は、ホール隅々までとてもクリアに飛んでいく。とても心地よかった。
 
映像やグッズもカラフルでかわいくてそれだけでもきゅんきゅんする。黄色赤青緑。溢れる元気に圧倒されてしまう。楽しい!楽しい!
 
ファン層は男女半々、老若男女幅広く、だった。20〜30代が多いんだろうけど、わたしの横は中学生くらいと大学生くらいの子どもとその両親という家族連れだった。家族総出でライブに出かけるってなかなかない。これもいきものがかりの強みなんだろうなぁと思った。
 
最後の方モニターに「悲しみに負けたくない 怒りに打ち克ちたい」というメッセージがうつった。いきものがかりがいちばん言いたいこれなのかなって思った。
怒りはエネルギーがあるし、悲しみは共感を呼びやすい。でもそうじゃなく、楽しさや前向きさの共有を目指し、実現していくいきものがかりってすごいんだなぁと感心してしまった。
いきものがかりツアー、とても楽しかったし、いきものがかりがとてもすきになった。ライブに行ってすきになるって意外となかったりする。なんとなくじゃわからないいきものがかりの底力。

あーそれにしても聖恵ちゃんかわいかったな!いままでぜんぜんかわいいとは思えないどこがかわいいんだろうとか思っていてごめんなさい!なにが、って言えないけど、かわいかった!溢れ出る姪っ子感。愛でたい。

*1:「帰る」という表現はいつまで許されるのだろうか

ネット開通記念

やっほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

お久しぶりです。
更新頻度的にはそうでもないかもしれないが、わたし的にはかなりお久しぶり。というのも先日やっとネットが開通し、こうして快適にインターネットが楽しめるようになった。
のっけから思わずハイテンション。インターネットってすばらしい。スマホではできないこともあるからね。キーボードラブ。ありがとうフレッツ光。そしてポストペット

ブログに日常を書いてはいけないと見たことがあるが、あまりにインターネット開通が嬉しすぎたので、取り急ぎ近況報告をしてみたい。

引っ越してもうすぐ1ヶ月が経とうとしている。
新しい家は快適だ。こじんまりとしているが綺麗だし日当りもよい。ただ周りの環境は必ずしも良いわけではない。基本的に歓楽街だし、よくわからないマッサージ店いっぱいあるし、エスニックな匂いするし、首輪していないラブラドールレトリバーがうろちょろしてたりするし、なんだかとてもディープアジアだ。引っ越す予定もないけれど、次はもうちょっと立地を考えて家を決めたいと思っている。
TSUTAYAと職場に近いところは気に入っている。


仕事もかわって2週間が経った。とりあえず勤務時間が大幅に増えた。今まででは考えられない時間に帰宅するようになった。わたしがぼーっとしていた3年間、みんなこうやって働いていたんだなあと思うと頭がさがるばかり。前職と180度違うので、慣れるとか慣れないとかそういうことじゃない感じになっている。人に全く会わないのもつらかったけど人にたくさん会うのも大変だ、とこれまたわかっていたことをあらためて実感する日々。できないことばかりだし猛進すべき時期なのだろうけれど、すでに心が折れそうなので、とりあえず少しでも早く帰れるように試行錯誤しているところが、とてもヘタレでゆとりっぽい。早く自分のペースをつかみたいところ。


なんだかんだいって元気で暮らしているつもり。
次回はいきものがかりのライブにいった感想を書きます。

何もかも忘れられないよ

ついに今日をもって京都を離れる。離れることが決まってから、うじうじしたりうきうきしたりしながら過ごした約2ヶ月が終わろうとしている。引っ越し作業もなんとかうまくいき、生活する上での不便や不安なことはとりあえずなさそうに思える。とりあえずの達成感としては100点満点だ。

 

 

それでもやはり、さみしさがすごい。
わたしが固執していたものは「京都」ではなく「京都に住むこと」であったのだと改めて思い知らされる。京都に住みたくて大学を選んだ。なんとなくでも志望校を決めたのは高1になってすぐの模試だったはず。かれこれ10年の時が過ぎようとしている。あのときから続いているわたしの京都物語が今終わろうとしているのだから、それはそれは壮大なことだ。
京都に遊びにくることは簡単なのだ。5000円ちょいかけて1時間弱電車に揺られれば、京都タワーの麓につけるのだ。桜だって紅葉だってふらっと見に来ることだってできる。日帰りも大丈夫。

それでもやはり、さみしさがすごい。
もう京都に住むことはできないと思うと悲しい。ふらーっと思い立って自転車でいろんなとこに行ってみたり、鴨川でぼーっとしてみたり、木屋町で騒いでみたり。西にも東にも北にも南にも、すきなところがいっぱいあった。あぁ泣いちゃう。
碁盤の目を踏みしめながら、空を見上げては、あぁ京都に住んでるんだなぁって実感していた日々が終わる。詩的でちょっときもいだろうか。でもそれくらい、わたしは京都に住むということに愛着をもっていたのだ。

 

と、同時に、京都を卒業できる安堵というものもある。
京都が大好きで大好きで住めて本当に嬉しくて最高だったけれど、ここで一生を過ごすことはあまりイメージができなかった。ぼんやりと、いつかは出て行くんだろうと思っていた。京都を出て行く人を眺めながら、優越感と同時に焦りを感じていたのも事実。わたしはいつまでもここから抜けられず、学生時代やその他のキラキラをひきずり、空想の中で大きくしながら生きていくんだろうかって思っていた。
本当はもう現実を見つめなくては行けなかったのに、いつまでも現実ではない京都の中にふわふわと浸かっている感じがした。

 

京都のことを考えるとどうしてもポエティックになってしまうな。
それこそが京都と適切な距離感で関われていないことの象徴なのかもしれない。とても幸せだけれど不安定だ。
これからはもう少し客観的に京都と付き合っていける。やはりさみしいけれど、健全で安定している。

 

 

お世話になりました。

引っ越しーずハイ

ここ最近は毎日毎日様々な手続きをしたり書類を書いたりしている。入社と退社と入居と退去にまつわるタスクが大量にあって、それを確実に遅れないように片づけながらも、取捨選択をおこない、様々な判断をくだしていかなくてはいけない。もはや働いている場合ではないのではないかとすら思える。
作業が進み、少しずつ物事が片付いてくるにつれて、だんだんこれも楽しくなってくるから不思議。楽しいというのは少し違うか、なんというか、あぁわたし生きてる…!っていう気持ちになる。着実に前進しているという達成感と、今のところトラブルなく進められているという自己肯定感がはんぱない。ひとつひとつマスを塗っていくって気持ちいいんだなぁとしみじみしている。思えば3年前に引越したときは、もうなにもできていなかった。引越し後3日間ほどはガスが使えなかったし、3カ月くらいはもう使っていないプロバイダの料金を払っていた。その頃のことを思うと、本当に大人になったと思う。
目の前のことをクリアしていく快感って恐らくゲームで得られるものに近いんだと思う。よく「勉強もゲームのようにクリアしていく感覚で」「就活もゲームの一種だ」みたいなことが言われるけれど、いままであまりピンとこなかった。それが、今はよくわかる。これかと。引越し手続きは、ゲームだ。
ゲーム化するとモチベーションがあがるらしい。というかモチベーションをあげるためにゲーム化するらしい。ということは、モチベーションをあげる意義(モチベーションをあげるためのモチベーション???)が感じられないものはゲーム化するのも難しいのかもしれない。モチベーションをあげる意義を感じる(というかモチベーションをあげる)ためには、広い意味で自分のためになると感じられるか、他人のためになると感じられるか、もしくはやらなくては死ぬという切羽詰まった状況に置かれるか、しかない気がする。どれにも当てはまらないことは、どうゲーム化して楽しもうと思ったところでそれは無理なのだ。わたしの場合でいうと、勉強は、自分のためということがわかりやすかったのでゲーム化云々の前にモチベーションをあげる意義をあまり感じなかった。就活は、とにかく働きたくなかったので、どうがんばってもモチベーションがあがらなかった。かろうじて、やらなきゃ死ぬ・・・のかもしれない・・・社会的に・・・と思えたので就職したけど、まぁモチベーションが高い状況ではなかった。今回の、様々な手続きは、やはりやらなきゃ家と仕事がなくなり死ぬ上に人に怒られそうなので、モチベーションをあげる意義はわりとはっきりしていた。だからこそゲーム化によってさらにモチベーションがあがったのだろう。ゲームしようと思ってゲーム化したわけではないけれど、次第にそういう気持ちになっていった。無意識的にゲーム化するということもあるんだなぁと思った。
まぁだからなんだという話であり、教訓にするには薄っぺらいし解決策はなにもないけれど、自分の中でひとつ腑に落ちたので書いてみた。

伝われ~~~~~~~~~~~~~~~~

退職エントリを書きます

ついに、退職エントリを書くときがやってきた。
新卒で入社した会社をまるっと3年で退社することにした。入社してから会社の業績がどんどん傾いていったのには驚いたけれど、勤務時間は短く、有給もとりやすい。そういう意味ではホワイト企業だったと思う。給料は少ないけれど。そんな会社を3月末で辞めることにした。


退職エントリってことで何を書こうか。思想丸出しの自分語りをしようかと思ったけど、それもめんどくさいのでやめておく。前職(現職)のことは、業界が限られてくるのと、その業界に特化した仕事をしていたので、なんとなく怖い。今の仕部署は入社10ヶ月で配属された。すごくざっくりと言うと、データを集計したり分析したりする仕事だった。データを集計したり分析したりする作業はとても苦手で、最後までしっくりこなかった。数字をまとめたり離したり混ぜたりして意味を見いだすことがこんなにもできないと思わなかった。正直自分から何かを発信できたことは無かったし、人の意見や考えを、「なるほど」と受け止めるだけの日々だったので、本当に向いていなかったんだと思う。こんなに自分ができないと思わなかったくらい、どうしたらいいのかがわからなかった。もっと貪欲に何かを得ようとすればどうにかなったのかもしれないけれど、そのモチベーションもあげることができなかった。つくづく自分の頭の悪さを呪った2年だった。


そして、これはおそらくわたしに問題があるのだけれど、最初から最後まで会社のことをすきになれなかったのは残念だった。あの会社に勤めていることが自分の中で腑に落ちないまま3年がすぎてしまった。入社式で「あ、辞めたい」と思ったのを今でも覚えている。それでも続けて来れたのは、やはりホワイト企業だったということが大きい。ぬるま湯から抜け出すのはなかなか難しいのだ。

 

まぁそんな感じ。退職というか転職について書いてみようと思う。
たいしたスキルも情熱もない、ツテもコネもない、就職活動は苦手だった本当に普通の人の転職活動がどのようなものかをまとめてみたい。


本格的に転職活動を始めたのは去年の12月だった。エージェントに出向き、希望を伝えると、大量の求人を紹介してもらった。大量の求人の中から自分が応募したいと思えたのが2社しかなくて、会社で働くということに絶望を感じた。100%納得いく企業なんてないですよって言うのはわかっていたけれど、もうちょっと納得いく企業があると思った。世の中の厳しさを憂いてちょっと泣いた。
とりあえずその2社と、他に自分で探して3社書類を出した。結果、2社は書類選考を通過し、面接にすすんだ。有給をとったり、仮病を使ったりしながら、面接を受けた。余談だが、仮病を使ったのは人生で2回目で、1回目は高校の模試を抜け出して関ジャニ∞のコンサートに行ったときだ。こんな形で2回目を迎えるとも思わなかったけど、迫真の演技はその後1週間くらい体調を心配されるくらいのものであった。良心の呵責という言葉が頭をついてまわった。そこまでしたのに、2社とも面接で落ちた。1社は東京まで受けにいったので、あのときの苦労が…と思うと結構つらかったが、交通費を支給してくれると聞くとそのつらい気持ちも90%くらい回復したので、ゲンキンなもんだ。
年末に1社また応募をしてみたが、面接が決まったとたんめんどくさくなり、辞退。
その後もう1社応募してみて、こちらは面接まではいったけれど、雰囲気と仕事内容がすきになれず辞退。この辺は辞退の鬼だった。
その後1月中旬頃にもう1社応募。1次面接を受けたのが1月末、最終面接を受けたのが2月の頭、その2日後には内定のお知らせがきたので、なんとまぁスピーディーなこと、と驚いた。業種も、社員の人も、特段嫌な感じはなかったので、そのまま入社を決めた。

 

ざっくりとそんな感じ。だいたい1〜2ヶ月程度で活動を終える人が多いらしので、わりと平均的だったのだと思う。転職活動に使った有給は3日。早退が2回。わたしの仕事はぬるいのでこんなことも可能だったが、忙しい人や遠隔地での転職を考えている人はいったいどうするんだろう。正直、わりとシビアに面接の枠や時間が決められているな、と思っていたが、言えば土日や夜に移動してもらえたのだろうか。また、エージェントを利用することで、こまごまとした手続きなどをしてくれるのはよかったが、もらえる情報はあたっていたりあたっていなかったり、だった。「面接官は厳しめの40代の男の人です」て言われても、実際30半ばの女の人だった、みたいな。なにも情報がないよりはよかったと思うが、正確度は30点くらいの印象だった。ことあるごとに「二人三脚でいきましょう」というメールを送ってくるエージェントだった。人によっては、エージェントが面接日程をまとめてくれたりすることもあるらしいが、わたしはそもそも数を出していないのと、落ちたら次、という風に応募していたので、その辺の恩恵はあまり受けなかった。


次の仕事は、まさかの営業マンだ。わたしのことを知っている人は、本当に、「まじで?」って思うだろう。わたしが一番思っている。どちらかというとコミュ力が無い方なのに営業とか大丈夫なのか。やってみないとわからないが、できる限りがんばってみたいと思うし、そう思えることはよかったと思う。3年間忘れていた気持ちを思い出した気がする。勤務時間も大幅に増えるらしい。これもやってみないとわからないけれど、もともと仕事したかったから、それはそれでいいということにしている。この辺はまだ言い聞かせの部分もでかい。社畜としての腹をくくるときなんだろう。
喜びや安堵より不安が大きいのは、ほぼ初めて自分で考えて選択したことだからかもしれない。大学入学も、就職も、ひとと同じタイミングで、ひとと同じようなことをおこない、その結果得られたものをそのまま享受してきた。今回も、3年というベタな時期のうえ、結局は外的要因によって決めたところが大きいが、初めて、数ある選択肢とタイミングから、自らが選び取ったという気がしている。今までやったことがないから不安になるのは当たり前かな。自分がどう考えどう感じるかも観察していけたらおもしろいかなぁとは思っている。


ひとつ、悲しいことは、京都を離れることだ。
京都のすばらしさは何度も言語化しようと試みたし実際おこなってきたが、あまりうまくいっていない。京都そのものより、それにまつわる経験や思い出がすきだからかもしれない。だからこそ、この3年間もずーっと学生の延長みたいな気持ちだった。名残惜しさや離れがたさはつのるばかりだけれど、そろそろ卒業しなくてはいけないんだろうな。

 

結局自分語りに終始してしまった。
今後ともよろしくお願いいたします。

なんでも妖怪のせいなのではないかということについて

 妖怪ウォッチブームということで巷ではなんでも妖怪のせいにする子どもが増えているらしい。

 

大人気「妖怪ウォッチ」が子どもの脳に与える“意外な影響”とは? | All About News Dig(オールアバウト ニュースディグ)
妖怪ウォッチ「何でも妖怪のせい」は良いこと?悪いこと?を心理学的に解説(碓井真史) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

ピーマンが食べられたことですら妖怪のせいだと言われてしまえば、身の回りにおこることが全て妖怪のせいだと思っても(そういうことにしても)、責めることはできないのではないかと思う。


ところでわたしの仕事は、とあるプログラムを動かしてデータを集計するというようなものだ。今日は同僚から、とても簡単な、ほんとうに簡単なデータ集計の依頼をうけた。データを集計して表にまとめてファイルをつくって、長く見積もっても1時間もあれば終わるだろうと思い、作業にとりかかった。ふんふんと鼻歌まじりでファイルを作成し、確認。なにかがおかしい。どうも結果がずれている。どこか間違えたかなぁ?と思い、再度やりなおし、修正。ファイルをチェック。結果をチェック。やはりなにかがおかしい。間違えようがないくらい簡単なプログラムだ。もしかしたら元のファイルに不具合があるのだろうか。もう一度調べてみるも、元のファイルにも変なところはなさそうだった。やはりこちらの問題か。時期がおかしいのか、読み込みが変なのか、設定が変なのか。
いよいよわからない。すでに2時間が経過している。他にやらなくてはいけないこともある。なぜ。なにが違うのか。
そこで気づいた。


もしかして、これ、妖怪のせいなのでは?

 

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思わず書いてた↑

 

きっとそうだ。とんでもなくネットを使う人70代ばかりが抽出されるのもきっと妖怪のせいだ。データの中身が美容院だらけなのも妖怪のせいだ。人々の情報が塗り替えられたようにちぐはぐなのも妖怪のせいだ。妖怪データちぐはぐのせいだ。そう思えばすべてがうまく行く。とんちんかんなことは妖怪のせいだったんだ。
わたしはそれに気づいたんだ。そうか。妖怪のせいだったんだなぁ。そういうことだったんだなぁ。なんとなくほっこりして、一息ついた。一息ついて、考えた。


で、それでどうしようか。


データがわけわかんなくなって数字が全然あわないのが妖怪のせいというところまではよいとして、そのわけがわからなくなったデータをなおすのは妖怪ではなくわたしなのだ。これがわたしのプログラムのミスだとか、抽出時期の間違いだとか、元データの狂いとかならば、それを修正すればいいものの、妖怪データちぐはぐによってちぐはぐにされたデータを修正する術をわたしは知らない。妖怪ウォッチをみたら修正方法も教えてくれるのだろうか。なんだか妖怪と友達になるといいらしいという噂は聞いたが、それはこの場合も適用されるのだろうか。2015年の目標「友達をつくる」をこんなところで発揮しなければいけないとは思わなかった。人と友達になりたいのに妖怪と友達になっている場合ではないし、人ともあまり友達になれないのに、妖怪なんてますます無理だ。
マネージャーに「妖怪のせいでデータがあわないんです」って言ったらどんな顔されるかな。きょとん、とはされるだろうな。もういいから早く帰れって言われるかな。明日からもわたしのデスクちゃんと存在するかな。社会人として、原因を妖怪に求めるのあまりにリスキーだと思うと、途方に暮れた。
もしこの世の中のいろいろが妖怪のせいだったとしたら、それは本当に困るということに気づいた。とくに社会人は、妖怪のせいでおかしなことがおきたら、どうすることもできない。なんせ不景気にも増税にも打ち勝たなくてはいけないのだ。妖怪に屈している場合ではないのだ。妖怪のせいなんで、っていって、はいそうですかと納得してくれる上司はいない。わけがわかることなら対処のしようがある。妖怪は対処のしようがない。わたしのせいではないが、妖怪のせいではある場合、責任をとるのは妖怪ではなくわたしなのだ。こうなったら妖怪コンサルが出てくるのを待つしか無い。妖怪のせいでどうにかなったものを、うまく軌道修正してくれるのが妖怪コンサル。妖怪は日本にしかとりあえずいないだろうから、強いのは日系妖怪コンサルだろうか。リクルート出身の社長が作る妖怪コンサルベンチャーがスタートアップでバリューをあげたりするんだろうか。結局強いものが勝つ世の中なんだろうか。

そんなことを考えながら必死でミスを確認した。どうか妖怪のせいではありませんように。わたしのしょうもないミスでありますように。しょうもないミスを祈ったのは初めてだ。それでも妖怪のせいであるよりは100倍マシだ。

願いかなって、プログラムに、小さなミスがあるのを発見したとき、思わず飛び跳ねるかと思った。しょうもないミスでよかった。妖怪のせいじゃなくてよかった。これを修正すれば全てはうまくいくんだ。自分が掌握できる範囲に原因があってよかった。本当によかった。プログラムは嘘をつかないんだって任天堂の岩田さんも言ってた。もっと岩田さん信じればよかった。任天堂も妖怪ウォッチに「プログラムは嘘つかない」って注意書き入れといてくれ。
「妖怪のーせいなのねーそうなのね!」「でもプログラムは嘘つかない!」
これ。これがあるとないとでは世界が全然違う。任天堂が言わないのなら、再度わたしが大きな声で言っておく。

 

プログラムは嘘つかない!

 

 

お疲れさまでした。