(今年も)祇園祭にいきました

祇園祭にいってきた。
気づけば祇園祭がとても好きで、年中行事の中で1位2位を争うくらいになっていた。
今のところに引越してきて、7月にはいったとたん、空気が祇園祭に包まれることに気づくようになった。
お囃子の練習が始まり、店先にちょうちんがぶらさがり、鉾が組み立てられる。
祭りの色が濃くなるごとに、私のテンションもあがっていく感じ。この季節がやってきたんだって肌でびしびし感じてしまう。

祇園祭の何がすきか、って、総力挙げてお祭りをするところ。
四条烏丸という京都随一の道路を潔く歩行者天国にして、2〜3日、もしくはそれ以上の期間、祇園祭に注力する。
その間は交通もよくわからないし、お店もあいてたりあいてなかったりだし、警察官はいっぱいいるし、観光客もいっぱいいるし、なんだか常にぐちゃぐちゃしているけれど、祇園祭だから仕方ない。そんな強制力って祇園祭か国家かしかないのでは。
熱気とカオスに巻き込まれて浮かれた夜を過ごす場所が、毎日の通勤路やよく行くコンビニだったりするんだから、非現実感はより際立つ。
逆のことももちろんあって、祇園祭で歩いた道が、後から見てみたらなんてことない交差点だったりする。今度は現実の中に非現実が混じり込んでくるから不思議。

それぞれの鉾は鉾町が管理していて、各鉾町ともアピールや物販に力をいれているところも何とも言えず愛らしい。
小さい子が声を張り上げてちまきを売るところもあれば、ギミック付きのおみくじでお客さんを集めるところもある。
派手な鉾は派手なりに、地味な鉾は地味なりに、いろいろな条件をのみ込んで巻き込んで自分たちの鉾を表現するところは、いろいろなことに応用できそうかも、とかそんなことを考えるとは大人になったもんだなぁ。


毎年毎年祇園祭にきて、ぶらぶらと歩きながら鉾をみあげる。
なにも変わらないようにみえる鉾をひとつひとつ確認する作業は、ここにいて、ここで暮らしている今と昔を全部確認することと同義ではないのか。
なんだか人生を肯定されているようにすら思えてくるのは大げさですね。オザケンかよっていう。でもそれくらい、思い入れがあるものになってしまったんだよ。


また行けるといいな。