愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよ

「愛はリソースの配分。お金と時間をどれだけ相手に掛けたかに寄って愛と錯覚することもある。」と、ほんまでっかTVで脳科学者の先生が言っていた。まさに!と膝を打ったとはこのことか、前半の方ね、あまりにもしっくりきすぎたのでちょっと書いてみる。

 

 

まずいちばんわかりやすいのが、いわゆるヲタのひとたちで、このひとたちはそのまんま、お金が愛に変換されている。CDや雑誌を買い、ライブに行き、グッズを買うことで、愛を本人たちに伝えている。というか愛を伝える方法なんてそれしかないからね。AKBは露骨にそれが順位やなんやらに反映されるわけだけれども、そうでなくても、いくらつぎ込んだかが愛情のバロメーターになっている場面は多い。実際に、たまに聞かれるのが「CD3種類出してくれたら買うのに!もっと貢がせてよ」という声。むやみに売り上げを増やすような売り方がされるようになって久しいけれど、それによってヲタクたちは、より愛情表現する機会が与えられているとも言える。
また、ジャニタレのファンを辞め、俳優のファンになった人が「投資をする場所がない」ということもよく聞かれる。ジャニーズはやれコンサートだCDだDVDだ舞台だなんだって、とにかくひたすらお金を落とす対象をぶっこんでくる。反対に俳優はそういうわけではない。年に何回か舞台をやるかもしれないし、雑誌などには出るだろうけれど、お金を落とすタイミングとしては全然足りない気がする。そして、ジャニーズの世界に慣れてしまうと、そうではないところにいったとき、愛をぶつける場所の少なさに戸惑うのだ。(もちろんイベントが少なくてつまらない、という話もある) ジャニーズじゃなくてもアイドルとかアニメとかそういうのも一緒ではないかな。
好きだ愛してるって口ではなんだって言える。でもそれを相手に伝えるには、特にその相手が芸能人やアーティストなどわたしたちのお金で生きているひとならばなおさら、結局はお金をいくら落とすか、それがそのまま愛情の大きさになるとわたしは考えている。貢いでなんぼ、つぎ込んでなんぼ、だって好きだもん、なのだ。
ここで救いなのが「愛はリソースの配分」というところ。絶対額ではなく、あくまでも自分のリソースをどれくらい割くかという話。あとはひたすらそのリソースを増やすべく日々せっせと働くしかない。

 

 

もちろんこれは対個人にもいえて(というかほんまでっかではそういう文脈で出てきた)、相手への愛は自分が削り出したものでしか表現できない。浮気のなにがムカつくって、相手の女にお金つかったことでしょってのも聞かれる意見。ただ、個人相手だと割くべきものが必ずしもお金とは限らない。時間かもしれない、会いにきてくれる体力かもしれない。「愛さえあればいいといいながらプレゼントの値段だけで気持ちはかってる」と歌ったのはSMAPだけれども、これも半分は正解で、ただ「値段だけ」で気持ちはかるのは少々乱暴なんだろうなと思う。
また、ここでも効いてくるのが「愛はリソースの配分」というところだとおもう。もともとのリソースが多いものは、絶対量が多くても大して配分されていない可能性がある。mixiの恋愛コミュでよく言われていたのは「相手の言葉でなく行動をみましょう」ということだ。つまり、「どんなに好きって言っていても、態度がそうは思えなかったとき、その態度の方を信じましょう」ということ。言葉のリソースは他のものに比べてかなり大きい。とくにペラい言葉なんてほぼ無限に出てくる。そんなものを大量に浴びたところで、ぜんぜん意味を持たないことがある。これはわりと真意なのではないかな、とおもう。

 

 

対人以外でも、物や趣味に関しても言えるだろう。海外旅行にいきたい!ヨーロッパにいきたい!と思いながらなかなか行かないのは、お金や時間がないのではなく、愛がないから。ただそれだけだ。

 

 

 

愛がきちんとあるならば、それなりの労力をつかってきちんと痛みを伴って表現実行すべきなのだ。その痛みはそのうちとてつもない快感をうみだすわけで、そうなるともういよいよやめられなくなるよね。
逆に言えば支払う価値のあるものだけにリソースはとっておくべきでもある、けれどこの話はまたこんど。

 

こんな話を誕生日前にしました。
他意はないですてへぺろ